きのこに名前をつける ① 分類ってなに
種とはなにか?

対象物はお外にいるのに~・・大きなジレンマを感じるときがあります
きのこの分類について、少し話したい。
きのこの勉強をはじめたとき、
まずは、近くの公園など身近にこんなにもいろんなきのこがいる、ということにまず驚いた。
そして、このきのこの名前はなんだろう??🍄
・・・と図鑑やら、ネットやら~いろいろ駆使して調べてみる・・・
けっきょく夕方まで調べまくったが、それでもよくわかない!!!
きのこの名前を知ることってこんなにも難しいものだとは・・・!
いまでは、
“このきのこはあの本を調べればたぶん名前がわかるな”
“この種の属はまだ分類の再検討が行われてないからカオス状態、調べるだけ無駄だな”・・みたいな
「きのこトリアージ能力」← これ大事!!
が備わったようで、闇雲に名前を探ることはなくなった。

当時は、こんなきのこを見つけては、図鑑とにらめっこしてたっけな~・・・
ってか特徴とかおさえてないので、こんなんでわかるわけない!
ちなみに、いまは、スルー案件。
(クヌギタケ属かな?まではわかるけど、種小名までは辿りつけても確信もてないし)
“分類”は思考の構築で出来ている
そもそも「種とはなにか?」から考えよう。
分類学を勉強していると、「種とはなにか?」あるいは「種定義」について ディスカッションをする機会が多くなる。
化学や物理ではおそらく定義からのディスカッションはしないだろう。
それは、再現性が担保される対象の現象の機序を、明確で論理的に証明している学問であるからである。
ところが、分類学には、それはない。
というのは、
分類学とは思考の構築であり、正解がない。
からである。
例えば、「自分の部屋」はどうレイアウトし、整理整頓しているのだろうか?
机をどこに配置するのか、たくさんある本はどの順で並べるのか?
それは人それぞれで、まったく同じ「自分の部屋」というのは、ほかにはないはずだ。

分類も同じ。みんな違って当たり前。
一応、学術の生物分類は、命名規約に基づいている。
それに従ったルールで作られた棚に生物種名が整頓されている
「自分の部屋」は机やベット、教科書や漫画などで構成されているが、
“分類学”というのは、「生物の名前」という恣意的な概念の集まりで在って、
それらは恣意的な言葉で表現されている学術分野である、というのを理解しなければならない。
ときどき、分類もしくは種定義はこれだ!!この属の定義はこれなんだ!!といわんばかりに、
生物分類を杓子定規で諮ろうとする人をみかけるが、
そういう持論はかならず行き詰まるし、
多くの種概念を網羅するような柔軟な意見に、いつかは簡単に取って代わられる。
ちなみに、
「分類」や「種概念」について水を向けられると、最近のわたしは、
「分類学って、哲学みたいなものですからねぇ~・・」
とお茶を濁すことにしている。この切り返しに、非常にわたしは満足している。
そう、分類学って、
なぜ自分は生まれたんだろう?幸せってなんだろう?みたいな答えのない答えを希求する哲学と通じる部分がある。
分類学の思想について、もっと知りたい人は、ぜひ紹介する本を読んでほしい。
難解な部分もあるが、読後はきっと“分類”に対する考えが変わるだろう。
そして、それは、これまで持っていた自分の自然観さらに世界観に疑いを感じ、考えや感覚が一新されることに驚くはずだ。
「分類という思想」池田 晴彦
「分類思考の世界」三中 信宏