トガサワラ論文とは何か?(菌類と遺伝子流動とそして多様性について学ぶ)
「トガサワラ論文」というのは僕が勝手に名付けたものだ。
この論文を読むまでは「トガサワラ」は「小笠原」と同じく地域名だとばかり思っていたのですが、違うってことにハタと気づきました(笑)。
トガサワラとはマツ科トガサワラ属の「樹木」でありまして、マツ科という事ですから大雑把に言うと名前の由来でもあるツガなどの松の仲間の針葉樹、ということになりますね。
このトガサワラというマツの仲間は他のマツ達と同じく菌類たちと共生して栄養の交換を行って生活していています。そして菌類たちは木の根っこところに栄養を交換するための組織を作り、その組織の中で菌類は水分やミネラルを提供し、樹木は光合成をすることで作り出した糖類を菌類に渡しているのですね。
その菌類の代表に「トガサワラショウロ」というショウロの仲間がいます。
トガサワラショウロは2014年に奈良県川上村のものをホロタイプとして新種記載されたもので、トガサワラと特異的に外生菌根菌として共生を行っていることが知られている。
つまりトガサワラショウロはトガサワラではないマツ類や他の樹木とでは共生することができない、ということなのですね。これ特に重要なので覚えておくように(笑)。
そんなトガサワラとトガサワラショウロの関係から一体何が分かるのだろう?
遺伝性流動?多様性?遺伝的分化??
知らない言葉がつらつら出てくるのが「論文」というものの難しさですね。
この論文を読むまでに一定の知識レベルに達してないと何を書いているのかチンプンカンプン。
ただこの論文の差し示すところは将来間違いなく重要になる内容であるので、分からないなりにかみ砕きながら解説してみたいと思う。
ちなみにこの論文の主著者は我らのアベちゃんこと阿部寛史さんである。
阿部さんは僕が調べたいと思ったキノコのDNAを調べてくれただけでなく、系統樹の描き方やきのこの生態にまつわる色々なことを教えてくれて、きのこびとの心臓部はアベちゃんで出来ているのではないか?というぐらいの大恩人なのですね。
その大恩人が今年発表した論文が通称トガサワラ論文なのです。
ではその内容をじっくりと追っていきましょう。
タイトルを分解してみる
論文はオープンになっているので、もし興味のある方は以下のURLからお読みください。
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/pdf/10.1111/mec.17533
で、タイトルはこうです。
「Habitat fragmentation strongly restricts gene flow in endangered ectomycorrhizal fungal populations: Evidence from Rhizopogon togasawarius, specific to Pseudotsuga japonica, across the entire distribution range」
これをGeminiで翻訳してみるとこんな感じになります。
「生息地の分断は、絶滅危惧種である菌根菌の遺伝子流動を強く阻害する:トガサワラショウロ(Rhizopogon togasawarius)と トガサワラ (Pseudotsuga japonica) との特異的な関係を、全分布域にわたって調査した結果」
少し解説を加えてみます。
先に書いた通りトガサワラとトガサワラショウロは共生関係にあります。しかもトガサワラショウロは特異的にトガサワラに共生しているため、他のマツ類が近くにあったとしても共生をすることはないのです。この事により絶滅危惧種であるトガサワラに共生するトガサワラショウロは、それ自身も絶滅危惧種となっているのですね。
また、遺伝子流動とはある生物集団から別の生物集団へ遺伝子が移動する現象です。これにより、ある集団に存在しなかった遺伝子が別の集団から持ち込まれたり、ある集団に多く存在していた遺伝子が別の集団に広まったりすることで、それぞれの集団の遺伝的な構成が変化するのですね。
つまり、遺伝子流動が阻害されるという事は、外部からの異なる遺伝子が持ち込まれることがなくなってしまうのです。
そしてこの論文のキーとなる「生息地の分断」ですね。
この生息地があちらこちらに一定の距離をもって分かれている、という状態はトガサワラにとってはさほど重要でないように思ってしまいますが、、、その辺りはどうなのでしょう?
また、その分断によって共生しているトガサワラショウロの方は、、これまたどうなのでしょう?
この「生息地の分断」がこの2つの種にどのような影響を及ぼすのか?
がこの論文のキモなのです。
これを阿部さんはどのように解明していくのでしょうか?
Abstract(要旨)を分解してみる
まずはAbstract(要旨)の内容を箇条書きにしてみました(Gemini君にお願いした)。
まずはとても重要なので一読してみてください。
- 生息地の分断は、遺伝的浮動や近親交配を通じて、絶滅危惧種の遺伝的多様性の減少と遺伝的分化を引き起こす。
- 本研究では、絶滅危惧種であるトガサワラ(P.japonica)に特異的に共生するECM菌、トガサワラショウロ(R.togasawarius)を対象に調査を行った。この菌も樹木と同様に絶滅危惧種に指定されている。
- 調査対象地域は、紀伊半島と四国に点在する小規模な森林で、その2箇所は海峡によって隔てられている。
- 20個の遺伝子座を用いた単純配列反復(SSR)分析により、集団間に強い遺伝的分化(FST = 0.255)が明らかになった。
- わずか8kmしか離れていない近隣の集団間でも有意な遺伝的分化(FST = 0.075)が見られ、集団間の遺伝子流動が極めて限られていることを示している。
- DIYABC-RF分析により、2つの地域間の集団分岐は約6000世代前、四国内の近隣集団間では約1500世代前に起こったと推定され、過去の気候変動と関連している可能性が示唆された。
- 長期にわたる遺伝的隔離のため、5つの集団のうち4つで有意な近親交配が確認され、有効集団サイズ(Ne)が非常に小さくなっていた(Ne = 9.0–58.0)。
- 微生物の絶滅リスク評価は困難であるが、本研究の保全遺伝学的結果は、生息地の分断が個体群の遺伝的メカニズムを通じて絶滅リスクを高めることを示しており、生物多様性保全の取り組みにおいて見過ごすべきではないと結論づけている。
- つまり、生息地の分断は菌類の遺伝的多様性にも悪影響を及ぼし、絶滅のリスクを高める要因となることが示された。
どうでしょう、、内容が掴めましたでしょうか?
僕は一度読んだだけでは分からなかったので何度も読み返しましたが、やはりいくつかの語句が分からなかったもので、語句を調べては読み、読んでは調べを繰り返してやっと分かるようになってきました (#^.^#)
Abstractは短い文章の中に内容がぎゅっと詰められているので、やはり基礎知識が必要となってきます。なのでこれだけで理解しようとするのは所詮無茶なことなのですが、それでもだいたいのニュアンスだけでも汲み取れたらそれだけでも大丈夫ですので、大意を押さえつつ読み進めてみてください。
それでは語句の解説もGemini君に頼んだのでこれを読んだ後にもう一度Abstractを読むといいでしょう。
生息地の分断 (Habitat fragmentation): 森林などが開発によって分断され、小さな断片状になること。これにより、生物の移動が制限されます。
遺伝子流動 (gene flow): 個体群間で遺伝子が移動すること。花粉の運搬や動物の移動などが例です。遺伝子流動が少ないと、個体群間の遺伝的な違いが大きくなります。
遺伝的浮動 (genetic drift): 小さな個体群で偶然によって遺伝子の頻度が変化すること。特に個体数が少ないと、特定の遺伝子が失われたり、逆に広まったりしやすくなります。
近親交配 (inbreeding): 近い血縁関係にある個体同士で交配すること。遺伝的多様性が低下し、有害な遺伝子が発現しやすくなる可能性があります。
菌根菌 (ectomycorrhizal fungi, ECM): 植物の根と共生する菌類。植物に栄養分(特にリン)を供給し、植物は菌類に光合成によって作った糖を提供します。森林生態系において重要な役割を果たしています。
単純配列反復 (Simple Sequence Repeat, SSR): DNA中の短い塩基配列の繰り返し。個体群の遺伝的多様性を調べるために用いられます。
遺伝子座 (loci): 遺伝子が染色体上に存在する位置。
FST: 個体群間の遺伝的分化の程度を示す指標。0に近いほど遺伝的分化が小さく、1に近いほど大きいことを示します。
DIYABC-RF分析: 個体群の歴史を推定するための統計的手法。
有効集団サイズ (Ne): 繁殖に参加する個体数の推定値。実際の個体数よりも小さくなることが多いです。
それでは次に、不肖わたくしめがトガサワラ論文について解説してみようと思います。
トガサワラ論文を分解してみる
トガサワラとトガサワラショウロは共生関係にあることは既に述べた。
またトガサワラショウロはトガサワラと特異的に共生しているため、同じマツ科の植物が近くにあったとしても共生はしません。
つまり、トガサワラショウロの胞子がツガの近くに運ばれて発芽したとしても、ツガの木とは共生できないので、その地ではそのまま消滅してしまう、ということになります。
すなわちトガサワラショウロにとっては共生関係にあるトガサワラがその生息地を広げてくれないと自分たちの生息区域も広がらないのですね。
しかしトガサワラは日本の固有種で生息地というのは四国と本州の一部しか残っておらず、まさに絶滅危惧種そのものでなんですね。
ですので、共生相手であるトガサワラショウロも自ずと絶滅危惧種となります。
以下の図はその地理的分布と円グラフはサンプリング数を示しています。
この図を見るだけでもトガサワラショウロは危機的な状況にあることは分かると思いますが、この論文ではその様な状況をいわば逆手に取り
この危機的な状況だから見えてくること
として、それを数値化して、生物の多様性がいかに我々地球に生きるものにとって大事なものなのか?ということを解明してくれています。
そこで今回の研究では阿部さんが立てた仮説に基づいて以下の3つの検証が行われています。
- トガサワラの森林分断が、その特異的な菌根共生菌であるトガサワラショウロ(R. togasawarius)の個体群間の遺伝子流動を制限しているかどうか
- 潜在的に制限された遺伝子流動が、各トガサワラショウロ(R. togasawarius)個体群内で低い遺伝的多様性と高い近親交配をもたらしているかどうか
- トガサワラショウロ(R. togasawarius)個体群の遺伝的分化が、宿主個体群の分化と一致しているかどうか
これらをしっかりと検証することによって絶滅危惧の状態に置かれたものが遺伝子的にどのように変化していくのか?またその変化を知ることによって、それらの種をどのように保護していけば継続して守っていくことが出来るのか?ということが分かるのですね。
では仮説1の検証から見てみましょう。
トガサワラショウロ(R. togasawarius)には個体群間の有意な遺伝的分化が見られました。特にトガサワラショウロの様な地下生菌の場合、ハラタケ型のキノコの様に胞子を風散布によって遠くに飛ばすことは出来ませんので、自ずと昆虫や動物に食べられ、そして糞として排出されることによってより遠くへその生息地を広げることが出来ます。ただ昆虫や動物にも移動できる距離というのは限られており、距離が離れれば離れるほど胞子は別の個体群まだたどり着くことが出来ないということになりますね。
そして「有意な遺伝的分化が見られた」という表現はつまり他の個体群からやってきた胞子からの異なる遺伝子の影響を受けることなく、その生息域独特の特徴が際だってきている、ということなんですね。
ということは、
他の個体群から胞子がやってくることがなかった=森林分断によって個体群間の遺伝子流動は制限されている
と考えて良いということになります。
次に仮説2の検証を見てみましょう。
ここではまず「有効集団サイズ」という分かりにくい言葉が出てきます。
「有効集団サイズ」とは例えば動物園のサル山に50匹のサルがいたとしてます。
その中で繁殖に関わることが出来るサルは10匹のオスと10匹のメスだとします。
その場合の「有効集団サイズ」は「20匹」という事になるのですね。
この値はSSR(単純配列反復、マイクロサテライト)を調べることによって分かるのですですが、トガサワラショウロ(R. togasawarius)の値を調べたところ5つの個体群のうち4つで閾値を下回ったとのことです。
これにより近交係数(ある個体が持つ2つの遺伝子が、共通の祖先から受け継いだものである確率を示す数値)が高くなる、という事が起きます。
有効集団サイズが小さくなることは、上記でいう繁殖に関わるサルの数が減り、どうしても近親交配が増えてしまい、近交係数が高くなる、ということなのですね。
つまりは遺伝的流動がすくなくなると近親交配が増え、それによって有効集団サイズが小さくなる、ということを示しているのです。
そして最後の仮説3の検証を見てみましょう。
これはトガサワラ(P. japonica)とトガサワラショウロ(R.togasawarius)の系統樹のトポロジーが一致したということで、
個体群の遺伝的分化が、宿主個体群の分化と一致した
ということだそうです。
ちなみに系統樹のトポロジーというのは、系統樹の枝のつながり方で、生物間の進化的な関係を表しているのです。系統樹とは生物間の距離(違い)を表すとともに、その生物の進化の過程も表しているのです。
まったく異なった種のトガサワラ(P.japonica)とトガサワラショウロ(R. togasawarius)が同じトポロジーということはこの植物と特異的に共生している菌類は同じ環境で生きてくることによって同じような経路の進化をたどった、ということになりますね、、ビックリです。
さて、以上3つの仮説とその検証結果をみますと、生息域の分断によって生物の移動制限がかかり、それにより遺伝子流動が起きにくくなります。
それはつまり近親交配が進むという事と遺伝子の分化が顕著になっていく、ということを示しています。
また近親交配が進むという事は遺伝子の多様性が低下しますし、「近交弱勢」という繁殖力の低下が起こります。
一つの例では今年発表されたオガサワラシジミの繁殖途絶の原因解明ですね。
「国内で最も絶滅リスクの高いチョウ、オガサワラシジミの繁殖途絶の原因を解明―近親交配による遺伝的多様性の減少が、繁殖の失敗につながっていた―」
https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research-news/2024-07-12-1
この例では絶滅危惧種であるオガサワラシジミを2016年より多摩動物公園などで生息域外保全を始めたのだが、2020年にはその個体が確認できず繁殖途絶をしてしまったとのこと。
この原因を究明していくと、生息域外保全によって世代を重ねるにつれて近親交配が進み「近交弱勢」によって有核精子数や孵化率が顕著に減少し、やがてその個体数が減少し途絶してしまった、ということ。
このオガサワラシジミの例でも分かるように「近親交配」を行わざるを得ない隔離された環境において、トガサワラショウロはまさに絶滅の危機に立たされているのがわかります。
そしてトガサワラショウロやオガサワラシジミ以外の多くの生物もきっと同じ運命にさらされている事は言うまでもないでしょう。
トガサワラ論文の先には
「トガサワラショウロ」でネットを検索すると阿部さんが関わった学会での発表がいくつか検索されて出てきます。
「絶滅危惧種トガサワラおよび共生する外生菌根菌トガサワラショウロの集団遺伝構造」
2017 日本森林学会
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jfsc/128/0/128_174/_article/-char/ja/
「絶滅危惧種トガサワラと共生するショウロ属菌のマイクロサテライトマーカー」
2016日本森林学会
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jfsc/127/0/127_375/_article/-char/ja/
これらの発表で調査した内容というものが今回の論文の土台となっているのが良く分かります。
以前杏美ちゃんにきのこ合宿のメンバーの話をした時に「阿部さん」という名前をだしたら、「あぁショウロの人?」という返事が返ってきた。
「ショウロの人」というもの凄く分かりやすく、しかもキャッチーなネーミングに思わず「そうそうショウロの人!」と返したのだが、このブログ「きのこびと」になぞらえて「しょうろびと」が謎めていていていいなぁ、、と密かに思っているのだがどうだろう?(笑)
とまれ、このトガサワラ論文はいわば阿部さんが進めてきた研究の集大成であり、菌根菌という植物と共生をして生活している菌類にとっても、また絶滅が危惧されている生物に人類はどう向き合うのか?という観点にとっても、はたまた生物多様性というものの重大さを図る指標という意味においても重要な論文の一つであると僕は考えています。
トガサワラとトガサワラショウロ、この論文は2つの絶滅危惧種たちによって見えてきたことが材料となっています。それはとても悲しいことではありますが、しかしそこから多くの希望の光が見えてくることも確かなんですよね。
人類は今まで見えてこなかったことに目をつぶるのではなく、見えてきたことにさらに目を向ける必要があると、この論文は語りかけているのです。
『参考』
「Habitat fragmentation strongly restricts gene flow in endangered ectomycorrhizal fungal populations: Evidence from Rhizopogon togasawarius, specific to Pseudotsuga japonica,
across the entire distribution range」
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/pdf/10.1111/mec.17533
「遺伝子流動」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%90%E6%B5%81%E5%8B%95
「トガサワラショウロRhizopogon togasawariana の和歌山県における初記録」
https://jats-truffles.org/wp-content/uploads/truffology/vol_2/T2019-04_Orihara_Rhizopogon_togasawariana.pdf
絶滅危惧樹木を支えるキノコの発見
http://jumokukobe.blog.fc2.com/blog-entry-1653.html
「国内で最も絶滅リスクの高いチョウ、オガサワラシジミの繁殖途絶の原因を解明―近親交配による遺伝的多様性の減少が、繁殖の失敗につながっていた―」
https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research-news/2024-07-12-1