きのこ文学大全
きのこの好事家・飯沢氏が『世界のキノコ切手』に続き送り出した一冊。見た目は地味だけど中身がえらいことになっている。
小説やエッセイはもちろん、俳句、演劇、漫画から映画、音楽に至るまで古今東西いたる所からかき集めてきたキノコをあつかった作品の目録。著者の本業は写真家のはずなのだが、この入れ込みようは道楽と言うレベルをはるかに超えていて、副業でもお釣りが来そう。きのこ文学研究家の肩書きはダテではないようだ。新書なのに300ページもあるし。
ペラペラとページをめくっていると、最初は「あっ、こんなものが」「これ知ってる」などと目を止めながら楽しめるのだが、もう少し眺めていると、そのあまりのごちゃ混ぜ具合にクラクラしてくる。なんといってもこの本、100を超える作品(あるいは人、モノ)が、あいうえお順に並んでいるのだ。「ヒョウタンツギ」(手塚治虫)の次にファーブルが来たり、チャイコフスキーの次につげ義春が来たりでは、頭がおかしくなるのも無理はない。
以下引用
≪うまかったのか、うまくなかったのか。彼の心は、奇妙になげやりだった。もうひとかけら食べてみようと思った。じつのところ、まずくはなかった――うまいくらいだった。彼はさしあたりの興味にひかれて自分のなやみも忘れてしまった。これはまさに、死とたわむれることだった。もうひとかけら食べてから、ゆっくり口いっぱいたいらげた。手足の先が、奇妙にうずくような感じになってきた。脈がそれまでより速く打ちはじめた。耳の中で、血が水車溝のようなひびきをたてた。「もうひと口やってみろ」とクームズ氏はいった。≫……ウェルズの『赤むらさきのキノコ』より
あいうえお順で紹介される作品や作家たちには、小説や漫画といった分野の違いはもちろん、古い物新しい物、洋の東西、有名無名、老若男女、すべてのカベがとっぱらわれてしまっている。そんな本をデタラメにめくりながら読んでいると、まるでキノコの森に迷い込んだ挙げ句、毒きのこに当てられて、右も左もわからずフラフラ歩きまわってるような錯覚にとらわれる。飯沢氏のいう『キノコの中間性』とは、多分こういうもののことを指すんだろう。
人生に絶望して赤むらさきのキノコをほうばってしまったクームズ氏のように、足をもつらせながら、きのこ文学の森にさ迷いこむのも、まんざら悪くない。
……キノコ本の書評を書くなど、屁の役にも立たないのになんでするんだろう、などと思いながら続けていた私は、この本の出現に勇気づけられた。でもそれと同時にショッキングでもあった。「こんなんアリなんか?」
でもよくよく考えてみれば、「書評」って他人の作品をけなしたり褒めたり、そういうところが寄生的な形態だ。キノコっぽい。そして、一本の倒木からいろんな種類のキノコが生えるように、自分というフィルターを通して表現されるそれは、たとえ同じ本の書評でも他の人が書いたものとはまったく別物、唯一無二のものだ。創作であって、創作でない。私はそういう「書評」という形を気に入っている。
それにしても、飯沢さんの境地には死ぬまで達しそうにない。「本屋でキノコ狩り」か……そういう発想なかったな。今度やってみよう。