センセイの鞄

『センセイの鞄』 川上弘美

≪以下引用≫

「ツキコさん、その魚は生きがよさそうだ」
「ちょっと蠅がたかってますよ」
「蠅はたかるものです」
「センセイ、そこの鶏、買わないんですか」
「一羽まるごとありますね。羽根をむしるのが難儀だ」
 
 勝手なことを言いあいながら、店をひやかした。露店はどんどん密になってくる。軒をぎっしりとつらね、呼び込みの口上を競いあっている。
 おかあちゃん、このにんじん、おいしそうだよ。子供が買い物籠を提げた母親に向かって言っている。おまえ、にんじん嫌いなんじゃなかったの。母親が驚いたように聞く。だって、このにんじん、なんかおいしそうなんだもん。子供は利発そうな口調で答える。ぼうやよくわかるね、うまいんだよっ、この店の野菜は。店の主人が声をはりあげる。

「うまいんでしょうかね、あのにんじん」センセイは真剣ににんじんを観察している。
「普通のにんじんに見えますけど」
「ふうむ」
 
 センセイのパナマ帽が少しはすになっている。人波に押されるようにして歩いた。ときおりセンセイの姿が人に隠れて見えなくなった。そこだけはいつも見えているパナマ帽のてっぺんを頼りに、センセイを捜した。センセイのほうはわたしがいるかいないかにはぜんぜん頓着しない。犬が電柱ごとに止まってしまうように、気になる露店の前に来ると、すぐさまセンセイも立ち止まってしまう。
さきほどの母子連れが茸の露店の前に佇んでいた。センセイも母子のうしろに佇む。
 かあちゃん、このキヌガサタケ、おいしそうだよ。おまえ、キヌガサタケ嫌いなんじゃなかったの。だってこのキヌガサタケ、なんかおいしそうなんだもん。母子は同じことを言い合っていた。

「サクラだったんですね」センセイは嬉しそうに言った。
「母子連れっていうのが、ちょっとした工夫でしょうかね」
「キヌガサタケってのは、やりすぎです」
「はあ」
「マイタケくらいにしておいたほうがいい」

≪引用終了≫

……とらえどころのないほんわりとした中に、時おり妖しさ、怖さが見え隠れしたりする独特の文体を持つ川上弘美のベストセラー。四十路手前の「ツキコ」さんと、その高校時代の教師で、どっからどう見ても正真正銘おじいさんの「センセイ」。師弟のような酒飲み友達のような恋人のような…という奇妙な間柄のふたりが、ほぼ四六時中酔っぱらいつつ、すっとぼけた掛け合いをしながら時を重ねていく。

ここに「キノコ狩」の話が入っていて、けっこう密度が濃いのでそれもおもしろいのだけど、それとは別に露店の市を二人で歩く話「ひよこ」の一節にインパクトがあるので引用してみた。……キヌガサタケ売ってるってすごいな、というか、茸の露店ってこういう場所に普通あるか?これ日本?

もっとも、この作者の場合、本人が酔っぱらったまま文章書いてんじゃないかと思われるフシがあるばかりか、ラリってんじゃないかと疑いたくなるような幻覚の描写もしばしば出てくるので、冷静なツッコミはなんら意味をなさない。本書の「キノコ狩」の話では、まさしく毒キノコを食べる話題になって、キノコ汁食べて酒飲んで干しベニテングタケ?噛んで、あげくに最後わけわからなくなっている。

キノコ作家の最右翼に認定してよいのではなかろーか。

こちらは映画版『センセイの鞄』

「月刊きのこ人」(こじましんいちろう)2012年01月08日に掲載分を再掲載

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